吉田拓郎が引退した。
コンサートで「タクロー!」と叫ぶ熱狂的なファンではないが、日本のアーチストで誰が好きかと聞かれれば彼の名前を上げるだろう。
リアルタイムに熱狂を共有した世代よりも私は少し若い。「結婚しようよ」や「旅の宿」のヒットは知っていたが、その後から来たアーチストたちを聴くことの方が多かった。しかし今、「吉田拓郎」はそれらのアーチストよりもはるかに私の興味を駆り立てる。
それは勿論、彼が作った楽曲の数々が魅力的であるという事が第一だが、それと同じくらいに、彼の生き様や歩いて来た道に興味と共感を持つのだ。
日本のシンガーソングライターの先駆け。フォークのプリンス。中津川の出来事。「結婚しようよ」「旅の宿」の連続ヒット。テレビ出演拒否。金沢事件。レコード大賞受賞。フォーライフレコードの設立。初の野外コンサート。ツアーシステムの確立。新人アーチストの発掘。社長業。アイドルや他のアーチストへの楽曲提供。
彼が開拓し、通って来た道は様々だ。一アーチストとしてだけではなく、業界のイノベーターとしての吉田拓郎は、他のアーチストとは比べようもなく大きい。
その中で一番興味深く、衝撃的だったのはフォーライフレコードの設立だった。
「アーチストが自ら作るレコード会社」
そのニュースを聞いた時、胸がワクワクしたのを覚えている。そこには自由の香りがした。
しかし現実は厳しかったようだ。フォーライフレコードは期待したほどの成果を上げることは出来なかった。原田真二という新人は生み出したが、アーチスト主体の自由な製作現場の実現は、思った様には行かなかったように見えた。
吉田拓郎自身が最後のアルバム(LP)の中に同封したエッセイの中で、フォーライフ設立について書いている。
「なぜ、ああも簡単に誘いに乗ってしまったのか?」
それより少し前にラジオでも同じような事を彼は語っている。
「あれは若気の至りだった。フォーライフは失敗だった」
その言葉に私はショックを受けた。と同時にその正直な告白に胸を打たれた。
「余計な熱量を使ってしまった」とも言っている。
あれがなければ、もっと違ったアーチスト人生があったと思っている節がある。
「自由な創作活動」を求めてレコード会社を作ったのに、結果としては「会社を維持するため」にアーチスト活動を停止して社長業に専念しなければならなくなった。
「社長業はアーチストには何の役にも立たない」とも語っていた。
これは誤算だったろう。
もしこの「余計な熱量」の消費がなければ、彼の90年代以降のアーチスト業はまるで違ったものになっていたかもしれない。
確かにそうかもしれない。だが、それも含めて私は彼に共感する。
いや、だからこそ、今になって「吉田拓郎」の名前が私には大きく感じられるのだ。
社長業を始めて、そのまま裏方になってしまうアーチストも多い。俳優業など他のジャンルに移行する人もいる。しかし紆余曲折がありながら、彼はアーチストに立ち戻り、ミュージシャンとしてその音楽人生を全うした。それが素晴らしい。
彼の様に生きてみたい。そう思わせる数少ない先人である。
吉田拓郎氏の余生に幸あれと願うばかりだ。