M's last diary

自分について知っているニ三の事柄

ありきたりな結末

「思い出補正」などという言葉がある。

誰が言い出したのか知らないが、昔観た作品や体験した出来事が、自分の中で必要以上に高く評価されてしまう事を言うらしい。実際はそれほどの事でもないのに、思い出によって補正されているという訳だ。

昔好きだった「早春スケッチブック」というテレビドラマを見直した。大学生の頃に見た記憶がある。当時の自分は大いに刺激を受け、テレビドラマの中では一番好きだと公言していた。

久しぶりに見ると何だかイライラする。

面白い事は面白いのだが、何だか納得が出来ない。

前半は文句なく面白い。山崎努演じる沢田という男が、「お前らは骨の髄までありきたりだ!」と言って主人公たちを罵倒する様は、今見ても刺激的だ。しかし、後半になると失速する。彼の病気が悪化すると同時に、彼の言動もどんどん丸くなる。ありきたりな人生の中に価値を見出すようなことを言い出す。

勿論、この感覚は最初に見た時にも感じた事だ。その時はしかし、全体のコンセプトに圧倒されていたし、登場人物にも感情移入していたので、それなりに納得して最後まで見た記憶がある。しかし、最終回を見終わった時の、何だか少し騙されたような感覚は当時もあったし、今はよりそれを感じる。

沢田の様な、所謂アウトロー的な生き方をする人物を、テレビドラマで描くことは珍しい。それはお茶の間の正義を否定する存在だし、テレビドラマはそれを否定しては成り立たない。それは良く判っている。

判らないのは、沢田の言わば「転向」にも見える言動の変化が最初から計算されていた事なのか、それとも途中で軌道修正された事なのかである。

このドラマは視聴率が悪かったので、途中で修正されたという可能性も感じる。お茶の間を否定しては困る、と誰かが言い出して、しだいに丸くなってしまったのか?

 

脚本を書いた山田太一氏は、自分の中には「沢田的」なる物も存在する、と度々言っているが、氏の人となりを見ていると、やはり沢田的人物ではない様に思える。

「沢田的」部分を拡大して、山崎努演じる人物を作り上げたが、そういう人物が人生の最後に向かう方向を想像できない、もしくはそれを認めたくない、そんな感じを受ける。

沢田が自分の言動に忠実な男であれば、人生の最後の瞬間にもっと過激な行動をしたかも知れない。少なくとも岩下志麻を抱くことくらいしただろう。しかし山田氏はそれをさせなかったし、それが主人公たちの矜持だと信じている。

だからこそ彼は優れた、誰にも尊敬される作家なのだが、だったら「お前らはありきたりだ!」と主人公に叫ばした事は、どういう意味を持つのだろうか?

大学受験を終えて大学生になったばかりの私は、鶴見慎吾演じる山崎努の息子の立場に近かった。だからこそ感情移入してこのドラマに熱狂した。おそらくその頃の自分は「ありきたり」ではない生き方、死に方を見たかったのだ。だから山崎努がどうやって死ぬのか見たかった。最後に何か凄い事をするんじゃないかと期待していた。しかし、ドラマは登場人物たちが仲良く宴会をして終わる。これは「ありきたり」な結末ではないのか?