黒澤明の『生きる』のリメイク、『生きる Living』を観た。
はっきり言ってガッカリした。
『生きる』はこれまでにも何度もリメイクの噂があった。アメリカのスコセッシ監督がリメイクを考えているという話も聞いた。黒澤監督がご存命の頃から、リメイクの噂が絶えなかった。それだけ魅力的な題材なんだろう。だが、なかなか実現しなかった。
今回、カズオイシグロ氏が脚本を書くという事で実現したと聞いた時は、驚いたと共に、一気に期待が高まった。ビル・ナイが主役だと聞いて、これは期待できると思った。イギリス映画を見るとよく見かける俳優で、自分の好きな俳優の一人だった。
しかし……。
名作のリメイクは難しい。特に外国映画の場合、その国特有の文化や風習の上に成り立っている事が多いので、別の国にアダプトするには大きな困難が伴う。アメリカで『生きる』のリメイクが計画されていると聞いた時には、アメリカでは無理なんじゃないかと思った。アメリカと日本では国民性に違いがありすぎる。しかし、イギリスが舞台なら話は別だ。イギリスの官僚制度や国民性は、日本と近いものがあるのではないか、と思ったのだ。
しかし、出来上がった作品は、私の期待をはるかに下回っていた。
カズオイシグロ氏の脚本は、基本的な部分ではオリジナルに忠実だ。しかし肝心なところが大きく違う。黒澤作品が丁寧に描いていた部分を省略し、逆に注意深く避けていた事を、描いてしまっている。
一番気になったのは、オリジナルの映画では小田切みきさんが演じた若い女性の役だ。彼女はお役所に勤めるのが嫌になり、すぐに辞表を出してしまう。主人公はこの少女のエネルギッシュな様に感化され、自分ももう一度「生きてみよう」と決心する。この少女に相当する役はリメイク版にも出て来る。しかしオリジナル程のエネルギーは感じない。どちらかと言うと大人しい女性になってしまっている。そして最大の違いは……。
オリジナルではこの若い女性は主人公の葬儀に出て来ない。リメイクでは出て来る。この違いは大きい。これには大きな違和感を持った。カズオイシグロ氏はオリジナルを理解していないか、好きじゃないのではないかと思った。
誰が葬儀に出席するか、そして誰が出にないかは、この映画にとって重要なポイントである。それを黒澤明は注意深く考慮してこの映画を作った筈なのだ。それを変えてしまっては……。
「椿三十郎」の時にも思ったが、やはり名作のリメイクはやめておいた方がいい。そう確信した作品であった。