M's last diary

自分について知っているニ三の事柄

孤独について

孤独には慣れていた。

しかし、このところ妙に胸がざわざわとする。

それは恐らく、まだ業界に中途半端に足を突っ込んでいるからだろう。

もう業界から手を引きたい。そんな風に思うのだが、中々それが出来ない。

未練などはないつもりだが……。

 

本当に新しい出会いが欲しいのだ。

しかし……新しい出会いがあったとして、それが何か新しい喜びにつながるのか?

それが問題だ。

 

今さら、私に興味を持つ人間がいるとして、それは私の前歴を知っての事だろう。

それは本当の意味では、新しい出会いではない。

人生のリセットボタンを押すのは意外と難しいものだ。

引っ越しは人生を変えるか?

子供の頃には親の事情で人生が変わる。

小学校の頃は転校が多く、延べ4つの小学校に通う事になった。転校の度に自分の環境、友人関係などは大きく変わった。その経験がその後の人生にどんな影響を与えたのかは良く判らないが、3年から5年周期で人生は変わって行くものだと刷り込まれた様な気がする。

大人になると自分の転機は自分で作らなければならない。就職、結婚、転職など人生の転機は様々だ。引っ越しもその一つのような気がする。

実際、引っ越しをする度に自分の人生は変化してきた。良くも悪くも……。

いや、総じて良い方向だった気がする。

母が亡くなり、自分の家族は誰もいなくなった。結婚もしていないので全く一人だ。

こんな将来は予想していなかったが、不思議な事に寂しいとか悲しいとかいった感情はそれほど強くはない。

孤独が好きだという事なのだろうか……。

孤独と言うよりはむしろ自由を感じるのか……。

今、再び引っ越しをして故郷を離れた。故郷に対する郷愁は殆どないので、もう戻ることもないだろう。そして新しい生活が始まる。

それは新しい人生、新しい冒険の始まりなのだ。

そう思うと久しぶりに胸が高まる。

 

 

人生は自己責任

「人生は自己責任」だと思っているので、「社会の責任」を問う声を聞くと、いつも違和感を覚えてしまう。

「自分は傷ついた」「これは社会構造や業界の体質に問題がある」などという話を聞くと、それはその通りだと思いつつも、傷ついた自分を癒すのは自分の力でしかないと思うのだ。

「復讐」

それはそう呼ばれる行為なのかも知れない。

成熟した社会では許されない行為だが、もし本当に拭いきれない屈辱や不正義を味わったのなら、「復讐」でしかそれは癒されない。

個人的にはそう思う。

 

だから「復讐」を描いた作品を作るべきだと思う。

ありきたりな結末

「思い出補正」などという言葉がある。

誰が言い出したのか知らないが、昔観た作品や体験した出来事が、自分の中で必要以上に高く評価されてしまう事を言うらしい。実際はそれほどの事でもないのに、思い出によって補正されているという訳だ。

昔好きだった「早春スケッチブック」というテレビドラマを見直した。大学生の頃に見た記憶がある。当時の自分は大いに刺激を受け、テレビドラマの中では一番好きだと公言していた。

久しぶりに見ると何だかイライラする。

面白い事は面白いのだが、何だか納得が出来ない。

前半は文句なく面白い。山崎努演じる沢田という男が、「お前らは骨の髄までありきたりだ!」と言って主人公たちを罵倒する様は、今見ても刺激的だ。しかし、後半になると失速する。彼の病気が悪化すると同時に、彼の言動もどんどん丸くなる。ありきたりな人生の中に価値を見出すようなことを言い出す。

勿論、この感覚は最初に見た時にも感じた事だ。その時はしかし、全体のコンセプトに圧倒されていたし、登場人物にも感情移入していたので、それなりに納得して最後まで見た記憶がある。しかし、最終回を見終わった時の、何だか少し騙されたような感覚は当時もあったし、今はよりそれを感じる。

沢田の様な、所謂アウトロー的な生き方をする人物を、テレビドラマで描くことは珍しい。それはお茶の間の正義を否定する存在だし、テレビドラマはそれを否定しては成り立たない。それは良く判っている。

判らないのは、沢田の言わば「転向」にも見える言動の変化が最初から計算されていた事なのか、それとも途中で軌道修正された事なのかである。

このドラマは視聴率が悪かったので、途中で修正されたという可能性も感じる。お茶の間を否定しては困る、と誰かが言い出して、しだいに丸くなってしまったのか?

 

脚本を書いた山田太一氏は、自分の中には「沢田的」なる物も存在する、と度々言っているが、氏の人となりを見ていると、やはり沢田的人物ではない様に思える。

「沢田的」部分を拡大して、山崎努演じる人物を作り上げたが、そういう人物が人生の最後に向かう方向を想像できない、もしくはそれを認めたくない、そんな感じを受ける。

沢田が自分の言動に忠実な男であれば、人生の最後の瞬間にもっと過激な行動をしたかも知れない。少なくとも岩下志麻を抱くことくらいしただろう。しかし山田氏はそれをさせなかったし、それが主人公たちの矜持だと信じている。

だからこそ彼は優れた、誰にも尊敬される作家なのだが、だったら「お前らはありきたりだ!」と主人公に叫ばした事は、どういう意味を持つのだろうか?

大学受験を終えて大学生になったばかりの私は、鶴見慎吾演じる山崎努の息子の立場に近かった。だからこそ感情移入してこのドラマに熱狂した。おそらくその頃の自分は「ありきたり」ではない生き方、死に方を見たかったのだ。だから山崎努がどうやって死ぬのか見たかった。最後に何か凄い事をするんじゃないかと期待していた。しかし、ドラマは登場人物たちが仲良く宴会をして終わる。これは「ありきたり」な結末ではないのか?

 

されど空の青さを知る

「鍛え抜かれた肉体」という物にあまり興味が湧かない。

「人間の限界に挑む」などと聞くと、ため息が出てしまう。

「人間はもっといい加減でいいんじゃないのか?」と思ってしまう。

真実を突き詰めたり、科学の限界に挑んだり、その結果、人間は幸せになれたんだろうか?

その結果、生み出されたものが、原爆や化学兵器だったりもする。

冒険の旅に出た結果、植民地が生まれたり、差別が生まれたりする。

 

ついでに言えば、バックパッカーという奴が好きになれない。

多くの場合、それは文明の進んだ国の人間が、未開の地を歩くことだ。

そこには何か密かな優越感のような物を感じる。

そして世界を見たような気になって、家に帰る。

結局、帰るのだから、行かなくても良い。

そんな風にも感じる。

 

井の中の蛙、大海を知らず」という諺がある。

その言葉が日本に渡った時、後の句を考えた人がいるらしい。

「……されど空の青さを知る」

このエピソードが好きだ。

蛙は空を見上げ続ける。そして、空の青さの本当の意味を知る。

冒険者たちが気づかない、本当の意味を……。

 

 

「街とその不確かな壁」


「街とその不確かな壁」を読了したので、その感想をここに記しておくことにする。

これを読んだと言うと、「どうなの? 村上春樹って面白いの?」って聞かれることが多い。そういう人は大抵読んでいない。しかも「大して面白くないよ」という反応を期待している。

 

村上春樹は特殊な作家になってしまった。

その新作が出るたびにニュースになる。そんな小説家は今の日本に他にはいない。

大学時代に最初に読んだ時にはそんな作家ではなかった。どちらかというと、ある特定の人が読む作家で、いわゆる大衆作家とは違う雰囲気だった。「ノルウェイの森」が大ベストセラーとなって、彼を取り巻く環境は変わったような気がする。

全ての作品を読んでいる訳ではないが、同時代に出てきた作家として、新作が出るのが楽しみな作家であることは確かだ。

 

さてと、今度の新作の話だが……買って3~4日で読んでしまった。つまり面白かった。

相変わらずメタファーが多い作品なので、これを理解しているかと言われると正直判らない。しかし理解することが文学の正しい読み方とは限らない。判らないけれど面白いという作品もある。村上春樹もそんな作家の一人だと思う。

読みながら思い出したのは、高校のころに夢中になったカフカの小説たちである。

「審判」「城」「変身」などのカフカの作品は、同じように判らないが面白い小説だった。

 

「面白いから読んでみなよ」と他人に進めるのは躊躇する。

そんなことをしなくても読み人は読むし、読まない人は読まないだろう。

しかし、久しぶりに楽しい読書体験だったことは確かだ。

 

生まれ変わったら結婚しよう

「生まれ変わったら、結婚したい」と若い女の子に言われた。

「生まれ変わって俺が虫になってたらどうすんだ? キャーって悲鳴を上げて、叩き潰すんだろ?」

などと言って混ぜっ返したが、それで良かったのか?

30以上も年が離れている女の子にそんな事を言われるのは、決して悪い気はしない。お世辞にしたって嬉しい事だ。

「早く結婚したい」とも言っていた。

「朝早く起きて料理を作って、まだ眠っている旦那さんを起こしにいくの」

などと可愛い事を言っている。

今時、まだ結婚に夢を持っているのは、素晴らしい事だと思う。

けれども……そんな結婚が本当に実現出来のか。

結婚後に苦労をしている若い人たちを何人も見ているので、なかなか素直におめでとうは言いずらい。

それでも結婚が彼女に幸せを運んでくることを願っている。

そして……生まれ変わったら、その時は?